(2008年02月15日)
社会の「警告者」の役割―相場師あれこれ・下
前回に続いて「昔の名前の相場師」のことで恐縮だが、市場に名を残した相場師は皆「場味」(ばあじ)を重視してそれには毎節のセリを聞くことが欠かせなかった。山梨筋こと霜村昭平氏は釣りが趣味だったので、しばしば伊豆の別荘に出掛けていたが、そんな時でも小豆の立会になれば、セリを聞き逃すことはなかったという。1日のうちで最も大事なのが最後の場節の「引け味」で、小豆のような国内商品ではこの引け味で明日の相場が決まるので、相場師がこの大引けに味付け売買をするのである。
この場味を探るのには競売買による板寄せであることが絶対条件で、ザラバではこれが不可能なのである。
今回のNon大豆には今が盛りのプロの投機筋から「昔の名前の相場師」まで勢ぞろいしたといわれるが、値動きの荒さを「投機」のせいにするのは間違いで、時には取引所による市場管理も「有事対応」を迫られるのである。平時ばかりが相場ではないのである。これで残る農産物がザラバに移行し、一方の東工取で市場の国際化がさらに進むと、市場はファンドや機関投資家に席巻され、相場師はその存在が一段と薄れるであろう。
ノンフィクション作家の沢木耕太郎氏は初期の作品でこの相場の街「蛎殻町」を題材に「鼠たちの祭り」を描いたが、相場師はある意味では社会の警告者なのである。そこには価格の大変動をもたらす原因が必ず存在する。一時世界を騒がした原油の100ドル相場は過剰流動性が溢れてこれが投機に向いたことへの警告だった。要は社会の、そして価格の大変革を早く嗅ぎ取れるかどうかが、プロとアマの違いではないだろうか。
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