(2006年08月03日)
[特別記事] 中東緊迫の背景を探る-保坂修司氏

イスラエルのレバノン攻撃が「48時間」の中断をはさみ、再び激しさを増している。イラクにおいてもテロが衰える気配を見せず、中東はまさに「世界の火薬庫」である。その背景には何があるのか。近畿大学国際人文科学研究所教授・日本エネルギー経済研究所中東研究センター研究理事の保坂修司氏に、過去の中東・アラブ諸国のイスラムの動きから現在に至るまでの経緯をロング・インタビューした。
――1967年の第3次中東戦争以来約40年間のイスラムの動きについて。
「イスラムの動きを考えるにはアラブ・中東諸国におけるイデオロギーの問題を無視できない。50―60年代にかけてアラブ民族主義が隆盛したが、第3次中東戦争でアラブ諸国がイスラエルに完敗したことで、それ以降、アラブ民族主義は徐々に衰退していく。それに代わってイスラム主義あるいはイスラム原理主義と呼ばれるイデオロギーが力をもつようになった。ここで言うイスラム主義、イスラム原理主義は、いろいろな形があるのだが、基本的には20年代以降のエジプトにおけるムスリム同胞団の流れが主流になっている。ムスリム同胞団はナセル時代に弾圧されていたが、ナセルが死亡し、アラブ民族主義が衰退していくなか、代わりに登場したサダト大統領がイスラム教に対して融和的な政策をとることによって、再び盛り返してくる。これが70年代の動き。ところが、サダトがイスラムに融和的な政策を表面的にはとりながら、実際にはイスラエルと和解し、米国との関係を強めていくと、イスラム原理主義者から『裏切り者』と非難されるようになり、結果的には81年に暗殺される。これが過激なイスラム主義の第一の流れになる」
――その後の流れは。
「それ以降、エジプト国内では再度イスラム原理主義に対する弾圧が始まる。ちょうど同じ頃の79年、イランではイスラム革命が起こり、メッカ占拠事件が発生し、アフガニスタンにソ連軍が侵攻するという事件が発生する。これによってアラブ諸国にいた多くの過激なイスラム原理主義者がソ連と戦うため自らの意志でアフガニスタンにジハードに行く。過激な層がアフガニスタンに出ることによって中東各国の国内は比較的安定する。これが80―90年代にかけて。ただ、状況は全然変わっておらず、危険分子が見えなくなっただけ。89年にソ連軍がアフガニスタンから撤退すると、ジハードの経験を積んだ過激派が帰ってくる。それから次の段階に入る」
「そして90年、湾岸危機が起きる。その時に米軍がサウジアラビアに駐留する。これを大半のイスラム主義者は、『十字軍による聖地占領』というロジックにすりかえることによって、新しい敵を作り出す。それまでのイスラムの国を占領する共産主義者(=ソ連)という構図がイスラムの最も重要な聖地を占領するキリスト教の軍隊(=米国)という構図に置き換えられ、90年代以降は米国対イスラムというロジックが構築され、それが結果的には911テロにつながっていく」
――関係国の動きはどうか。
「たとえば、エジプトに関して言えば、80年代―90年代にかけて過激派の掃討作戦が展開され、追い詰められた連中が97年にルクソール事件を引き起こした。この事件では多数の無実の人達が殺害され、それゆえエジプトの過激組織は大衆の支持を失うことになる。結果的に、犯人のイスラム集団という組織はテロを放棄するイニシアティブを発表せざるを得なくなるが、そのイニシアティブに従えない、さらに過激な連中がアフガニスタンで再結集する。それがジハード団のザワーヒリーであり、サウジのビン・ラディンであった。そこから現在のアルカイダができて911に至っている」
(東京・大地)
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